第六十三話

調和論

─── ◆ ───
朝靄の中の石窯パン屋

── 通りの向かいの石窯 ──

黒パンのかぐわしい匂いでシャールとセフィラは目が覚めた。

通りの向かいにある石窯から漂ってくるのだ。麦の焼ける香ばしさにかすかに焦げた蜜めいた甘さが混じっている。

フェルディスが「ここの黒パンは南街道で一番うまい」と太鼓判を押していたのはこれだろう。

階下の食堂にはもう朝食が並んでいた。厚く切った黒パンと湯気の立つ蕪のスープだ。

黄蕪のスープと黒パン

── 黄蕪のスープと黒パン ──

宿の女将

「パンは向かいの窯から朝一番に届くのさ。スープはうちの裏の畑の黄蕪でね。ここらの丘の蕪は霜に当たると甘くなるんだよ」

宿の女将がそう言いながら椀をよそってくれた。

黄蕪のスープは澄んだ琥珀色をしている。口に含むと蕪の甘みが舌の上でとろけ、底に沈んだ燻製肉の塩気がそれを引き締めていた。黒パンを浸して食べるとなおよい。皮は硬いが中身はしっとりと密で、噛むほどにライ麦の素朴な甘みが広がっていく。ラスフェルの白パンとは別の食べ物だった。土地が変われば麦が変わり麦が変われば味が変わる。街道の距離はそのまま味の距離でもある。

セフィラ

「おいしい」

セフィラが素直にそう言った。

食後に向かいのパン屋で四つ買い足した。旅の食糧だ。窯番の老爺は「朝から別嬪さんを見るとは縁起が良さそうだなァ」と言って紙に包んでくれた。

セフィラ

「三日は保ちますわ」

布に包み直して荷袋に収める。

カンネンベルクからの乗合馬車には客が少なかった。シャールとセフィラの他には荷を抱えた農夫が一人と巡礼帰りらしい夫婦が一組。どちらも口数は少ない。

馬車が宿場町の石門をくぐると、道は南へ緩やかに下り始める。

南街道の丘陵と牧草地

── 南街道の丘陵と牧草地 ──

左右に冬枯れの畑が広がり、丘の斜面では葡萄棚が見える。灰色の石垣が畑を区切りながら尾根まで這い上がっていた。

天気は上々だ。風も昨日よりは温い。

農夫が最初の集落で降りた。巡礼の夫婦は次の分岐で会釈をして降りていき、馬車には二人と御者だけが残った。車輪と蹄と風の音が代わる代わる鳴っている。

帝国式の水路

── 帝国規格の石組み水路 ──

丘を越えると水路が街道の脇に現れた。丸石を敷いた底を透明な水が小さな音を立てて流れている。

セフィラ

「この石組みはルッツさんが話していた帝国の規格と同じですわ」

セフィラは馬車の縁から身を乗り出して水路を覗いている。シャールは「落ちないようにしてくれ」といいつつ、内心でややハラハラとしながらセフィラの腰に手を当てていた。



街道は丘陵地帯を縫うようにして南へ下っていく。

昨日までは冬枯れの茶色い畑がどこまでも続く平坦な景色だったが、今日は違う。

道の両側に低い石壁が現れ、その向こうに牧草地が広がっている。柵の中で毛の長い羊がかたまって草を食んでおり、牧童らしい少年が石壁に腰掛けて馬車を眺めていた。セフィラが片手を挙げると、少年もつられたように手を挙げ返す。

午前の半ばを過ぎた頃から空気が変わった。

水の匂いが濃くなり、街道の脇に薄い靄が立ち始めている。地面のあちこちに苔が這い常緑の灌木が密度を増した。

セフィラ

「硫黄ですわ」

セフィラの鼻がわずかに動く。

セフィラ

「温泉が近いのですね」

メルリンゲン。薬売りの老人が教えてくれた小さな温泉場だ。

御者に声をかけてメルリンゲンの分岐で降ろしてもらうことにした。

街道から脇道に逸れて谷に向かって下っていく。道幅は馬車一台がやっとで、両側を常緑の低木が覆っていた。足元の土は黒く湿り、木の根の間から湯気が細く立ち上っている箇所がある。谷底に近づくにつれて硫黄の匂いは柔らかな草の蒸れた匂いへと変わり空気そのものが肌に温かくまとわりつくようになった。

シャール

「温泉か……楽しみだ」

シャールがぽつりと言う。シャールが好んで読んでいた冒険譚では、なぜか英雄・勇者たちがよく温泉にはいっている描写が多かったのだ。ウェザリオ王国にも湯に浸かる文化はあるのだが、温泉といった外で湯に浸かる様な事はした事が無かった。

セフィラは隣を歩きながらちらりとシャールの横顔を見る。いつもの寡黙な表情に変わりはない。だが声の底にこの男にしては珍しい色が混じっている。

馬車に揺られ続けて三日目だ。肩と腰に蓄積した疲労が温泉を求めるのは冒険者以前にひとりの人間として当然の欲求であろう。まあシャールは忍耐の人であるので、自らの欲求をストレートに口に出す事は余りないのだが。それに貴族として、そういった言動は慎むべきという教育も受けている。

そんなシャールを眺めながらセフィラは少しだけ嬉しそうに目を細めた。

メルリンゲンの集落

── 湯煙に包まれたメルリンゲン ──

メルリンゲンは二十戸ほどの小さな集落だった。

石と木を組み合わせた建物が斜面に段をなして並び、どの屋根からも白い蒸気が薄く立ち上っている。

集落全体がぼんやりとした湯煙の帳に包まれ空気は湿って温かい。商店の類は見当たらず、看板を掲げた宿が一軒あるだけだ。旅の途上に立ち寄る物好きがたまにいる程度の場所なのだろう。

──『湯治宿ヘルマ』

そんな木の看板の下に、腰の曲がった女主人が立っていた。

女主人

「お泊まりかい」

シャール

「部屋は空いているだろうか?」

女主人

「空いてるよ。部屋は一つにするかい?それとも二つ?どちらでも良いよ」

さてどうする、とシャールがセフィラに尋ねようとする前に、セフィラが「一つでお願いしますわ」と口を出す。

女主人

「ああいいよ。お兄さん、尻に敷かれてるねぇ」

そうして二人は二階の一室に通された。石壁の簡素な部屋だが、窓から湯気の立つ石池が見下ろせる。セフィラは荷物を降ろすよりも先に窓から身を乗り出す。

セフィラ

「天然の湧出ですわ。あの赤みがかった色はおそらく鉄泉でしょう。硫黄の匂いが穏やかなのは、鉄が硫化水素を中和しているから……泉質としてはかなり良質です」

声が弾んでいるが──シャールは『そろそろ来るな』と内心で身構える。

セフィラ

「ところでシャール?」

シャール

「ああ」

この『ああ』には色々な意味がある。一つは返事としての『ああ』。もう一つは──。

セフィラ

「温泉という文化はもともとこの大陸のものではないのをご存知でしたか」

来た、とシャールは思った。

セフィラ

「東方の諸国から交易路を経てこの大陸に伝わったのが三百年ほど前のこと。記録に残るもっとも体系的な文献は神学者キャイバーラ・ヘンケンが著した『調和論』ですの」

シャール

「調和論か……」

セフィラ

「ええ。ヘンケンは東方に三年間滞在してあちらの湯治場を実地に調査した方です。彼の主張はこうですわ。人間の心身は温冷乾湿の四つの気質がつり合うことで健やかに保たれる。その均衡が崩れた時に病が起こる。そして四気質のうち温と湿を同時に補うもっとも理に適った行いが湯浴みである、と」

セフィラは窓枠に腰掛けて足を揺らしながら続けた。

セフィラ

「ヘンケンの有名な言葉がありますの。『湯は肉体の垢を流すのみならず精神の垢をも溶かす。筋が緩めば呼吸が深まり、呼吸が深まれば思考の緊張もおのずとほどけていく』。三百年前にそこまで観察して記録した人がいるのですわよ」

シャール

「大した男だな」

セフィラ

「ええ。ただし彼の神学の同僚たちにはたいそう不評だったようですわ。裸で湯に浸かるなど東方の異教の習俗だと」

シャール

「どこの世界でも新しい考えは叩かれるものだ」

セフィラ

「それでもヘンケンは三十年かけて『調和論』を増補し続けました。湯の温度は体温よりやや高いのがよろしい。長湯は避けよ。湯上がりには必ず水を飲め。食後すぐの入浴は心の臓に障る。実に細やかな実践の知恵が詰まった書ですの」

シャール

「養生の書ということか」

セフィラ

「まさに。養生という考えを体系にまとめてこの大陸に根づかせた書物です。帝都の書庫に写本が残っているはずですわ。万粒論を探す折に──」

シャール

「ついでに調和論も探すのだろう」

セフィラが唇を尖らせた。図星だったらしい。

セフィラ

「……ついでと申しますか、あくまで学術的な関心として」

シャール

「ああ。分かっている」

分かっていると言ったシャールの声にはかすかにからかいの温度があった。セフィラは頬をわずかに膨らませたが反論はしなかった。

露天の石組み温泉

── 夕暮れの露天湯 ──

露天の湯は宿の裏手にあった。

石を組んで作られた湯殿が二つ、斜面を削った平場に並んでいる。屋根はなかった。女主人の説明によれば、時間で男女交互に区切る仕組みだそうだ。

今は女の時間なので、セフィラが先に向かった。シャールは留守番である。で砂絵を描きながら、窓の外に立ち上る湯煙がゆっくりと夕暮れの空に溶けていくのを眺めていた。

暫く待っているとセフィラが戻ってきた。頬が上気して翠色の瞳が潤んでいる。

シャール

「どうだった?」

まあ聞くまでもないだろうとは思いつつ、尋ねてみるシャール。セフィラは「ヘンケンは正しかったですわ」とだけ言って窓際の椅子にどさりと座り込んだ。

今度はシャールだ。

内心楽しみにしながら石段を降りて湯の縁に立つと、湯面から立ち上る白い蒸気が首筋に触れた。旅装を一枚ずつ解いていく。肩と腰に溜まった三日分の疲労をはっきり自覚したのはこの時が初めてだ。馬車の上では常に周囲への警戒が意識の底を占めていた。ここにはそれがない。

湯に足を入れると──。

温かい。ヘンケンが「体温よりやや高い」と書いた通りの温度だった。腰まで沈め、胸まで沈め。首の付け根まで浸かると全身の筋から力が抜けた。

湯の縁に頭を預けて空を見上げる。

シャールはヘンケンが「精神の垢をも溶かす」と書いたものが何を指すのか少し分かった気がした。溶けていくのは垢ではない。鎧だ。追手への警戒、旅の緊張、元王太子であったという記憶の重さ。そういうものが湯の中でゆっくりとほどけていく。

明日にはフォルカの渡しに届くだろう。ミルノ川を越えれば帝国だ。新しい土地に立つ事になる。

だがそれは明日の話だ。

──明日の私に全て任せるとしよう。

そんな事を思いながら、シャールは目を閉じた。